会場について

式場となる難波別院について、ちょっとだけ知ってください

真宗大谷派難波別院(南御堂)と申します。

真宗大谷派(しんしゅうおおたには)難波別院(なんばべついん)と申しますが、大阪の方からは「みなみのみどうさん(南御堂)」と親しまれてまいりました。

せっかくですので結婚式会場となる難波別院についてご存知いただければと思います。

現在も大阪城公園内には「蓮如上人」の筆による「南無阿弥陀仏」の名号碑が残されています。

元をたどれば、大阪城が出身地。

難波別院の本山は京都の「東本願寺」です。

その東本願寺と西本願寺が2つに分かれる前、元々あったところは、なんと今の「大阪城」でした。

1496年に本願寺第8代目の蓮如(れんにょ)上人が今の大阪城となる土地(大きな坂の上にある土地=大坂)にお寺を建立したのがその始まりです。

時代は流れ、戦国時代に織田信長とこの地を巡って争うこととなりましたが、織田信長が10年かかっても攻め落とせなかったほど、門徒(信者)さんの結束は強かったのでした(石山合戦)。

信長亡きあと、豊臣秀吉の時代に現在の土地を寄進され(1595年)、難波別院はこの地に建立されることとなりました。

ちなみに天下統一を果たした徳川家康から、その後土地の寄進を受けて建立されたのが現在の東本願寺となります。

【動画でもっと詳しく(2分30秒)→YouTubeが開きます】


拡幅直後の御堂筋。北御堂と南御堂がひときわ大きく写っています。

御堂筋の名前の由来となりました。

「御堂」とはお寺の本堂のこと。

難波別院からおよそ500メートル北に進みますと「北御堂(浄土真宗本願寺派津村別院)」があります。豊臣時代に難波別院と同じくこの地に移転させられたお寺です。

この北御堂と南御堂の「御堂を結ぶ道」が「御堂筋」の名前の由来なのです。元々は幅7メートルもない狭い道だったのですが、大正時代から昭和のはじめにかけて拡幅工事が行われ、今の御堂筋の姿となりました。

戦前の御堂は木造で大変立派なものでしたが、第二次世界大戦によって御本尊と親鸞聖人の御影(お姿を描いた掛け軸)を残して、全ては焼けてしまいました。

残された方々のご尽力によって、1961年に戦後復興し、今の姿となりました。

【動画でもっと詳しく(2分30秒)→YouTubeが開きます】

御本尊(中心)が阿弥陀さま、向かって右側が親鸞聖人。左側が蓮如上人です。

しんらんしょうにんのお寺です。

御本尊は「南無阿弥陀仏」。阿弥陀さま(阿弥陀仏・阿弥陀如来)というほとけさまの「お名前」です。

阿弥陀さまのお名前を呼ぶことを、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)といいます。そのことがもっとも大切だということを思想的に完成させてくださったのが「親鸞聖人(しんらんしょうにん)」です。

したがって難波別院の本堂には阿弥陀仏さまを中心として、お念仏に関わるかたを大切にお荘厳(しょうごん・美しくかざること)しております。皆さんにはその前で結婚の誓いと、結婚の式を執り行っていただきます。

日本初の山門一体型ホテルがお迎えします。

戦後復興した難波別院には「御堂会館」というホールがありました。

戦後の新しい日本を築き上げるにあたり、山門はホールという役割を兼ね、より多くの人を招き入れたいという願いによるものです。

その願いどおり、多くの人が集まってくださり、コンサートや試写会も行われました。ただ、老朽化によって役目を終え、2019年11月より新施設として生まれ変わりました。

積水ハウス不動産関西南御堂ビルが「新山門」として機能しております。ビルには大阪エクセルホテル東急や竹葉亭、コーヒーショップにケーキショップが入り、新時代の山門にふさわしい開口部からは、本堂が一望できます。

ぜひお待ち合わせ・お打ち合わせにもご活用ください。